酪農 男性
<ニュージーランド研修報告>
- 研修期間 2008.5.9~2009.4.30
- 配属農場
ニュージーランド北島 中央部、ワイカト地方モリンズビル。ここは一面平坦な土地で見渡す限り酪農家のファームばかりで、周辺に乳業会社の工場が3軒もひしめき合うほどの、NZでも酪農の中心地と言っていいかわからないが、盛んな地域でした。ほとんどのファームが大規模乳業会社フォンテラに出荷している中、タトゥアと言う唯一モリンズビルにしか工場をかまえていない小規模な乳業会社で、数あるファームの中、タトゥアに出荷している貴重なタトゥア農家でした。
牧場の全容は草地面積95ha、飼養頭数320頭でホルスタイン・フリージアン種、ジャージー種、この二つの掛け合わせのクロスブレット、三種のミックスファームでした。
農場主トム・ヘネガム イングランドからの移民系で若干27歳、七年前に移住し四年前に50/50のシェアミルカーに登りつめた若き天才。私は、彼にとってほとんど初めての長期雇用の労働者でした。彼はとてもいい人で、怒らず、人を褒め殺しにするタイプで私はとても働きやすかったです。彼はどんな人かと言うと、ほとんど毎日電卓片手に何かを考えている人で仕事中さえ小さい電卓を携帯しているくらいでした。「趣味は?」と聞くと、「酪農」と答えるほどの情熱家で、私の質問にも熱心に答えてくれました。口癖は「経営するにあたって、いくら金が稼げるかが大事だ!」でした。
彼の志は極めて高く貪欲で、将来的には1000頭以上を飼養したいと願っており、晴れてシーズン途中に南島のファームと契約でき、次のシーズンに移動、1300頭クラスにまで規模拡大が決まりました。
- 研修内容
ファームに移動してからは、約11ヵ月間にわたって滞在するにあたって、基本的に作業はトムと私のみで構成されるので、もし彼がいなくてもファームが回せるようにファームの必須作業をみっちり叩き込まれました。彼の作業内容の説明は分かりやすく、ひとつ作業を指示するにあたって作業の理由や、効果を事細かく教えてくれました。時には、彼から日本の酪農ではどのようにしているかなどを聞かれることもありました。
しかし、英語がままならなかった私はうまく説明ができなく、ダアァァァーってなったりして彼を困らせてもいました。ファームに入った当初は、ちょうど乾乳期であり仕事もそれほど忙しくありませんでした。8~9月にかけて分娩があり、シーズン中は最も忙しい時期でした。最初の分娩は彼の不在の時であたふたしたことを覚えています。それから徐々に分娩が始まり毎日のように10頭前後の子牛が生まれていることもあり、草地のなかを大の大人二人が必死こいて駆け回っていました。この時期、最も大変な時は搾乳牛150頭、出荷不能、治療牛30頭、乾乳牛140頭、哺乳牛100頭と、1日の作業が多く大変でした。
また、増頭方針のためファームで取れた子牛の牝牛は120頭ほどですが、彼はさらに100頭ほどの子牛を買いこんできて最終的に220頭ぐらいの子牛がいました。ウンザリするほどの子牛が畜舎におり、毎日、壮絶な格闘を子牛と繰り広げながら哺乳をしていました。哺乳で驚いたのですが、NZではミルクは温めず、哺乳器具も洗わないという大雑把さには驚きと、気持ち良さまでも感じました。日本人は神経質なんですね、子牛は疾病に苦しむことはありませんでした。
忙しい時期を終え、10月中頃に初めての休日を貰いました。また、同じころに繁殖が始まりました。最初の約8週間は人工授精で毎朝、搾乳中に発情牛の発見、選抜、搾乳後に人工授精の流れで、牛群を集める時や搾乳時は目を凝らして牛を観察していました。発情牛の発見は意外と大変で、二人で「この牛、どーだ、あーだ、こーだ」って言い合っていました。人工授精が終わると、まき牛(オス牛)6頭を牛群に交ぜ、本交での繁殖が始まりました。最初の2週間は6頭を交ぜました。オス牛は興奮し、メスのケツを追いかけまわし、嬉しそうでした。本交を目の当たりにするのは初めてで、牛の豪快さには驚きと感動でした。2週間後からはオス牛を二つの群に分け二日置きに交代し入れ替えるようになりました。これは、牛もいつも一緒のメス牛といるとマンネリ化してしまうので、オス牛にフレッシュ感を与えるためでした。笑っちゃいますね。
まき牛を牛群に入れるようになると仕事量は減り、楽になりました。ちょうど、クリスマスや年越しと重なりNZの行楽シーズンに入り、10日間ほどの休暇を貰いました。休暇の間はほとんどファームステイ先には帰らず、遊び呆けていました。最終日に銀行の口座を確認すると300ドルほどしか残っておらず、愕然としたことが思い出に残っています。ロングホリデーも終わり、ちゃんとファームに戻り仕事を始めました。
1月中頃から乾季に入り雨は極端に減りました、最高で2週間ほど雨が滞ることもありました。乾季に入ると放牧地の草量もグググっと落ちて、牛たちは文句を垂れるようになりました。この時期から、春の草量が多い時期に収穫しておいたラップを放牧地に給与し、足りない分を補いました。これがまた大変で、フィードワゴンでロールベールやビックベールを給与するのですが、専用の機械ではなく、給与時毎度のようにトラブルに会い、困っていました。と言っても大した事のないことでしたが。サイレージが無くなると、続けてデントコーンの給与に切り替わり乾乳まで給与し続けました。また、パンプキーノも併用して給与しました。
彼のファームで一番の仕事は、3月の末から10日間彼が不在で、私一人でファームを回したことでした。2日3日ぐらいならよくあったのですが長期間はさすがになく、代役を務められるか心配でした。期間中は来訪者の対応も私一人でしたので、無茶苦茶大変でした。一番のトラブルは、朝、バキュームポンプが回らず、あわや搾乳ができないところでした。知り合いを呼ぼうと思いましたが、同じく酪農家なので搾乳中と思い、断念。自分ひとりで何とかという思いで直しました。その日の朝の搾乳は早く終わらせようと釈迦力に絞りました。何とか集荷に間に合わせました。その日は疲れ果て意気消沈していました。そんな困難を乗り越え、最終日に彼の顔が見えた時は一気に緊張から解放されました。
私がファームを去る日が近くなると、ここぞとばかり仕事をたたみかけてきました。最後の1週間は、購入した牛に新しい耳標をつけるためにワイカト中のファームを駆け回りました。彼の焦りようは激しく、最終日の私が家を出る2時間前くらいまで外に出て仕事をしていました。なんやかんや色々ありましたが楽しかったのひと言につきます。
- まとめ
私は、NZは南半球に位置しており気候も環境も日本とえらく違い、酪農に関しては学べる物があまりないと思っていました。しかし、結局は同じ牛を扱い飼養していますし、経営理念も大して変わらないのです。NZのファーマー達がNZの環境や気候にあった酪農を確立してきたように、日本も日本の環境と気候に適した酪農を確立していくことを思わされました。
この1年間を通して、私はここに書き表せないほどの多くのことを学びました。それは酪農だけではなく、英語に始まり、多くの異色人種との交流、異文化交流などなど、いままでの私の考えを見直させるほどの衝撃でした。人生の宝となりました。